110723 : Saturday2011年07月23日

瓶の蓋を加工。


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メディアという単語の語幹は “ medi ”。
“ 中間の ” を意とするところだそうですが。

けれど、この数ヶ月を振り返ると日本のメディアはどことどこの中間でもなく、
敢えて言うなら自分たちに都合のよろしい方に傾いたり寄り添ったり。

例えば『報道ステーション』は、
「スポンサーが変わったので今日から電力会社批判ができるようになりました!」(堂々)
という状況のようです。
それでも、昨日まで習慣的に観ていた人は今日も観るのでしょう。


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山形県の吉村美栄子知事と滋賀県の嘉田由紀子知事が、『卒原発』を提言されました。
『脱原発』よりも現実的な、進んでゆく明るさを感じます。

言葉の細かい違いを取り上げて遊んでいるわけではありません。
文字には意識が載ります。
載っているものの大切さを汲み取りました。


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原子力発電というものを卒業しやすくするために、
「卒テレビ」もポイントになるのではないかと考えています。
個人的な意見ですが、テレビは洗脳の道具だと感じられるからです。

新しい電化製品を買い換え、所有して、
部屋の隅々までぴかぴかに照らす(電気をじゃんじゃん使う)豊かな暮らし!
…というテレビの向こう側の人に都合の良い設定が、
自分で物を考えることが苦手な人たちに、
原子力発電の存在をぼんやりしたものにしてきました。

ぼんやりしていたので、原子力発電の危険性や、
原子力発電で稼いでいる人たちに、自分たちがどのくらいお金を貢いでいたのかも、
ぼんやりしたままでした。


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今年の4月22日、「“ 若者のテレビ離れ ” を食い止めるには」という記事を読みました。
食い止めなくてはいけない理由は無いし、不自然だろうと首を傾げましたが、
視聴者や消費者を「ターゲット」と呼んでいるこの世界の人たちからすると、
必死、なのでしょう。


わたしもテレビは観ますし、
「カンブリア宮殿」を見てTabioの靴下を買いに行き、
製品の良さを実感したりしてます。

でもね、
今、平時じゃないんだからさ、
もう少し、真面目な番組が多くてもいいんじゃないのかなと、
ラテ欄を見ては絶望的な気持ちになります。

まして報道も、スポンサーによって左右されたり、
情報に規制がかかっていると多くの人が了解している中で、
生活に取り入れてあげる必要が、それほどあるのでしょうか。


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地震が起きた直後から、
テレビは問題が多すぎるということを書こうと思っていました。
「テレビ離れ」の記事を見た日も、書くなら今しかない、と。

でも、わたしの友人にはテレビ関連のお仕事をしている人が何人もいます。
みんな優秀でチャーミングな人たちで、大好きです。
彼ら、彼女らの事を思ったら手が止まりました。

テレビを愛する人も、友人に多くいます。
友達の楽しみにイチャモンをつけてまで、
声を上げる必要なんてあるんだろうか?と立ち止まりました。


ただねえ、
「あっちにもこっちにも角が立たないように」
「誰もが納得できる方法を」
と、気働き(といえば聞こえは良い)しているから、
政治判断が進まないことに気がつきまして。

そう、特定の人を糾弾したいわけではなし!
友人がわたしの言葉でテレビを観なくなるわけじゃなし!
そもそも「テレビはすべからく不要」とは思ってないのだから、
ひとりよがりの方が余程無駄ではずかしいと何ヶ月も経ってからわかりました。
日本政府がこんなにもグズじゃなかったら、気がつけなかったことです。
それはそれで腹立たしいですが。
あちらにも自分にも。


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もうひとつ。

昨今、専門家や評論家のセンセイ方がコメントする番組がたくさんあります。
確かに、
「この問題にはそんな背景や歴史が!」「そしてそんな素晴らしい解決方法が!」
と、勉強になるのですが。
良い方法があると知らされるだけ知らされて、
けれどそれらが現実に反映されたという話を聞いたことがない。

センセイ方の勉強や研究は何のためなんだろうな…と、
ある日、虚しくなりました。
(一所懸命に研究をされ、広く人に伝えようとしてくださっているんだとは思います!)

ただ、地震の後、何人かのセンセイの発言に、
視野が広すぎてあれもだめこれもだめ的なこともぽつぽつ見えまして。
実用性のないご意見をありがたがるテレビは非現実的だと感じたのです。
暇な時はありがたく受け止めますが。
でも、繰り返しますが、有事下なのです。

わたしがアホだから即効性を求めすぎるのかもしれません。
広い視野が効いてくる時だって来るでしょう。
でも、わたしはセンセイ方の美しいお餅の絵を観てる時間があるなら、
テレビを消して、せっせとキビタキの刺繍をして、
売上げを寄付しようと思いました。

ほんの少額でも。
スズメならぬ、キビタキの涙ぐらいでもさ。